「木の声を聞きながら削る」という言葉は、初めて聞くと少し不思議に響くかもしれません。木が声を持っているのか、と。しかし木工家・栗原政史の制作現場に立ち会ったことのある人は、この言葉が比喩ではなく、文字通りの制作態度を表していることに気づきます。本記事では、栗原政史の制作の根底にある「木の声を聞く」という哲学の意味と、それが生み出す作品の質について探っていきます。
「木の声を聞く」という哲学の意味
木は生きていた存在です。数十年、場合によっては数百年もの間、土から水を吸い、風を受け、季節を経て成長してきた。その時間の記録が、木目として、節として、割れとして、木材の中に刻まれています。栗原政史が「木の声を聞く」と言うとき、それはこうした木材に刻まれた時間と経緯への耳の傾け方を指しています。
どの森で育ったか、どのような環境に置かれていたか、どのような経緯で伐採されたか。こうした背景が木材の性質に影響しており、同じ樹種でも一本一本が異なる質を持っています。栗原はその個性を読み取り、この木材が最も生きる形とはどのようなものかを探ります。
「声を聞く」とは、木材を均質な素材として扱うのではなく、それぞれが固有の歴史を持つ存在として向き合うことです。木が語りかけてくるものを受け取り、それに応答する形で刃を入れる。その対話の積み重ねが、栗原の作品を作り上げています。
木材選びから始まる対話
栗原政史の制作は、完成した作品のイメージから始まるのではありません。まず木材との出会いから始まります。どの木材を使うかを決めるとき、栗原は市場の規格品の中から効率的に選ぶのではなく、地元の森林組合から届く間伐材や風倒木の中に、声を聞けるものを探します。
木材と向き合うとき、まず重さを確かめ、手のひらで表面をなでて質感を感じ取り、端を見て木目の流れを読みます。香りも大切な手がかりです。乾燥の状態、木の繊維の走り方、節の位置。こうした情報を総合しながら、「この木はどのような形になりたがっているか」を読み取ります。
木材選びの段階で既に、完成した作品との対話が始まっています。この木から何が生まれるかを想像しながら素材を選ぶことは、作品が形になる前から制作が始まっていることを意味します。その長い始まりが、栗原の作品に豊かな時間の重なりをもたらすのかもしれません。
木材選びは作品の出発点であり、その時点でほぼ作品の方向性が決まります。設計図通りに木を切るのではなく、木の個性に合わせて形を決めていく。その順序が、栗原の制作の根本的な特徴であり、「木の声を聞く」という哲学が最初に現れる場面でもあります。
間伐材と古材が語りかけるもの
栗原政史が好んで使う素材は、間伐材や古材です。間伐材とは、森を健全に育てるために間引かれた木のこと。市場では細くて価値が低いとされることが多く、活用されずに廃棄されることも少なくありません。古材は、古い建物が解体された際に出てくる木材で、何十年、何百年という時間を建物の中で過ごしてきた経歴を持っています。
こうした木材には、規格品にはない固有の物語があります。間伐材には、森の中で他の木と競争しながら育ってきた痕跡が、細い年輪の密さとして現れています。古材には、かつて家の梁や柱として人の暮らしを支えてきた時間の重みが、色や質感として刻まれています。
栗原はこうした素材の「語りかけ」を受け取り、作品の中に生かします。その木材が持ってきた時間を否定するのではなく、作品を通じて次の時間へとつなげていく。間伐材や古材への選択は、木の声を聞くという哲学の、素材選びの段階における具体的な表れです。
節と割れを「欠点」と呼ばない理由
木工の世界では一般に、節や割れのない均質な木材が「良い木材」とされることが多くあります。節は木が枝を持っていた証拠であり、割れは乾燥の過程で生じるもので、加工の際に扱いにくい部分として避けられがちです。しかし栗原政史はこうした「欠点」を、むしろ作品に生かすべき個性として捉えます。
節は、その木がどのように生きてきたかを最も直接的に語るものです。どの方向に枝を伸ばしたか、その枝がどれくらいの太さだったか。節の形が、木の歴史を物語っています。割れは木材が自然の力に応答した痕跡であり、それ自体が木の素直さの表れでもあります。
栗原の作品に節や割れが残っているとき、それは制作の失敗や妥協ではありません。その木が生きてきた証を、作品の表面に正直に残すという選択の結果です。「欠点」を隠すのではなく、語らせる。その哲学が、栗原の作品に他の木工品にはない温かみと個性をもたらしています。
削らないことの勇気
木工において、削ることは制作の中心的な行為です。しかし栗原政史の制作において同様に重要なのは、「削らないこと」を決断する勇気です。木材の表面には、時に荒い質感や不揃いな部分があります。それをどこまで削って平滑にするか、あるいはある程度の自然な起伏を残すか。その判断が作品の表情を決定します。
削りすぎると、木が持っていた自然な質感が失われます。規格品的な均質さが生まれますが、それと引き換えに、その木ならではの個性が消えてしまいます。栗原は、どこで鉋を止めるかを慎重に判断します。木が「もうここでよい」と言っているところで止める。それが「静かに止まった」という栗原の言葉の意味でもあります。
削らないことを選ぶには、素材の個性への信頼が必要です。人の手が加えなくても、その木はすでに十分に美しい。その確信が、栗原の制作の節度を支えています。過剰に手を加えることなく、木の本来の姿を生かすことが、栗原の考える良い木工の姿です。
鑿と鉋が作り出す対話の時間
栗原政史は、電動工具よりも手道具を多く使います。鑿で木を彫るとき、鉋で表面を整えるとき、工具を通じて木の抵抗を手で感じ取ることができます。その抵抗の変化が、木の繊維の状態、乾燥の程度、節の硬さを教えてくれます。電動工具では感じ取りにくいこの「抵抗の声」が、手道具による制作において重要な情報源になっています。
鉋が木の表面を走るとき、刃の角度が少しずれれば木目に逆らって傷がつきます。木の繊維の走り方を読みながら、最も素直に削れる方向を見つけていく。その探索のプロセス自体が、木との対話です。正解を教えてくれるのは木自身であり、制作者はそれを感じ取ることに集中します。
手道具による制作は時間がかかります。しかしその時間は無駄ではなく、木との対話が深まっていく時間です。時間をかけることで、木材の個性への理解が深まり、完成した作品に、そのプロセスが静かに宿ります。
機械では再現できない手道具の痕跡が、作品の表面に微妙な凹凸として残ることがあります。鉋がけの跡がそのまま見える部分、鑿が入った角の微妙な形。それらは欠点ではなく、人の手が木と向き合った時間の証拠です。栗原の作品においてそうした痕跡は、作品の一部として大切にされています。
使い手との対話へ
「木の声を聞く」という哲学は、制作者と木材の対話に留まりません。栗原政史の作品は、使い手に渡った後も対話を続けます。日々使われることで、木の表面は少しずつ変化します。使う人の手の脂が木に馴染んでいき、時間とともに色が深まり、小さな傷が増えていく。その変化が、使い手の暮らしの痕跡として作品に刻まれていきます。
栗原が作品にサインやロゴを入れないのも、この「使い手との対話」という考え方の延長にあります。作品は制作者のものではなく、使う人のものとして完成していく。栗原の仕事は、その完成の場所を整えることであり、実際の完成は使い手の日々の暮らしの中で起きていくのです。
使い手もまた、作品を通じて木の声を受け取る存在です。毎日手に触れる木の器の温もり、食卓に置いた木の皿の自然な色合い。それらを通じて、かつて木が生きていた時間の記憶が、使い手の暮らしの中に静かに溶け込んでいきます。
使い手もまた、作品を通じて木の声を受け取る存在です。毎日手に触れる木の器の温もり、食卓に置いた木の皿の自然な色合い。それらを通じて、かつて木が生きていた時間の記憶が、使い手の暮らしの中に静かに溶け込んでいきます。
木の声を聞くことと現代社会
効率と速度が重視される現代の製造業において、「木の声を聞く」という制作態度は、明らかに時代の流れとは逆行しています。機械で均質に加工することが効率であり、個々の木材に時間をかけて向き合うことは非効率とされるかもしれません。しかし栗原政史は、その非効率を意図的に選び続けています。
現代では多くのものが大量生産され、均質で、使い捨てられます。そうした時代において、一本の木の個性に向き合い、その木にしか作れない形を探し続けることは、ものの本来の価値を問い直す行為でもあります。栗原の制作は、量産と効率化の時代への静かな応答なのかもしれません。
木の声を聞くことは、自然への敬意でもあります。長い年月をかけて育った木を、ただの素材として消費するのではなく、その時間を大切に受け取り、次の形へと移行させる。栗原の制作姿勢は、自然との関係を問い直すきっかけも与えてくれています。
まとめ
木工家・栗原政史の「木の声を聞く」という哲学は、素材選びから削り方、完成の判断、使い手への引き渡しに至るまで、制作のすべての段階に一貫して流れています。木を均質な素材として扱うのではなく、それぞれが固有の歴史と声を持つ存在として向き合う。節や割れを欠点ではなく個性として生かし、削らないことを選ぶ勇気を持つ。こうした姿勢が、栗原の作品に他の木工品にはない温かみと深みをもたらしています。
木の声を聞くことは、自然と誠実に向き合うことの、最も具体的な実践です。栗原の作品を手にするとき、それはただの木工品ではなく、長い時間をかけて育った木との対話の記録であり、使い手の暮らしの中でさらに育っていく、生きたものとしての存在です。その豊かさに触れることが、栗原政史の作品と向き合うことの最初の喜びになるでしょう。
